美しいもの

美しいものを追いかけていたい http://twitter.com/kasg_wr

8月31日の夜だから。

子どもの自殺が増えるとき。

夏休みの終わり。

自己語りなんてしても仕方ないけれど、誰かが見ていることを期待して書こう。

 

学校に行けない子だった。

私の場合、理由はうつ病だった。

どうしようもなかった。朝どうしても起き上がることができなかった。制服を着ると喉が息苦しくなった。今でも高校の頃の制服を思い出すと気分が苦しくなる。

やっとのことで準備をして、家から出ようとする。電車の時間から逆算して家を出るのだけど、出るべき時間になってもどうしても体が動かない。そのまま時間が過ぎてしまって、次の電車の時間まで部屋で悶々とする。

家を出て駅に着いたけど、どうしても電車に乗れない日もあった。目の前に電車が来ているのに、どうしても乗れない。乗ってしまえば運ばれるだけだ、乗るだけだ、乗るだけだ、何度も何度も繰り返し繰り返し、それでも乗れなくて、仕方なく次に来た各駅停車に乗り込んだ。

 

朝10時台の街は静かで好きだった。そんな時間に一人で自転車を走らせる、よく見る制服を着た高校生は、周りからどんな風に見られただろうか。

 

朝制服を着ると、家を出て駅に着くと、学校が近づくと、私はきまって吐き気がした。正確に言うと、喉がつかえるような息苦しさ。これは今でも続いている。深呼吸をしなよ、というアドバイスは私には酷だ。その呼吸が苦しいのだから。

 

朝元気に起きられる日もあった。その日はるんるんだった。学校に着いても吐き気がしない。よし、今日は大丈夫、そう思って教室へ向かう校舎の階段を上っていたら、ぐっと吐き気が襲ってきた。悲しかった。私は学校に行きたくないわけではなかった。みんなと同じように普通に学校に行って、勉強をしたかった。だけど私は学校に行くことができなくなった。

 

早退する日もあった。昼下がり、自宅近くの駅に降り立ち、へこんだ気持ちで歩いていたら、同じ学校の制服を着た友人がいた。友人もまた、学校を休みがちな人だった。学校から少し離れたこの駅で、ちょっと遠くからお互いを見つけて、決まり悪そうに首をすくめて笑いあった。そんな日もあった。

 

保健室は安心できる場所だったように思う。保健室に行ったら必ず体温を測らなければいけなかったので、私はいつも申し訳なかった。どうせ熱なんてないのに。それでも保健室の雰囲気は好きで、養護教諭の先生にはとてもお世話になった。わんわん声を上げて泣いた日、先生は絶やすことなく背中をさすってくれた。先生は最後に「かわいそうに」と心から感情を込めて言った。私はその一言を決して忘れない。そう言われて嫌だったのではなく、救われたのでもなく、とにかく心に残る一言だった。他人がかわいそうだと言うほど当時の私は追い込まれていたのに、当の本人は全くその自覚がなかった。

 

授業中につらくて涙が出てきて、袖で必死に拭うことは何度もあった。たまらなくなって教室を抜け出して、トイレで声を潜めて泣いたこともあった。保健室に向かう廊下で何度もいろんな先生とすれ違った。先生たちは皆優しくて、特段関わりのない私を真剣に心配してくれて、ありがたい言葉をかけてくれた。友人も優しかった。私はとても行きたかった学校に行っていた。毎日が充実していて、嫌なことなんて何もなかった。私は教師になりたくて、「教師になりたい人はだいたい学校が好きで、学校で上手くやれていた人間だ」という皮肉をよく言うが、私はまさにそんな人だった。はずだった。

 

だけど、学校へ行けなかった。

 

毎日勉強勉強の生活。睡眠時間は5時間はとりなさいと言われた。朝6時台に起きて、部活を終え、20時に帰宅して、それから勉強。今同じ生活を送れと言われたらきっと2週間で体調を崩す。高校生の私はその生活に、1年と耐えることができなかった。

 

 

私は高校生ではなくなったけど、学校と子どもの問題は未だ他人事じゃない気持ちがある。どうしようもない問題だ。私は何も解決せぬまま必死に通って卒業してしまったのでまともなアドバイスなんてできないけれど、学校に行けなかったことのある大人がここに一人いるんだよ、というのを記すことで、大きな大きな夜景のほんの小さなろうそく一つのようになれたらいいな、と思う。