美しいもの

美しいものを追いかけていたい http://twitter.com/kasg_wr

a child

学校で虐待についての授業を受けたときの話。虐待されている子どもはなぜ、頑なに虐待されていることを認めないのか、という問いについて考えたときの話。

私はその答えが明確に分かっていた。ただ、それをうまく言葉にするのはあまりに難しかった。もっとも私は虐待を経験した子どもではないのだし、当事者の気持ちなんて到底分かり得ないのだ。しかし私にはその答えが明確に分かった。生きづらさを抱えているからかもしれないし、家庭に少しの歪みを感じているからかもしれない。虐待を経験した人にとっては、そんなことで分かったような口を聞くなという気持ちだろうが、ほんの少しだけ、言葉ではうまく説明できないけれど本当に少しだけ、私にはその答えが分かったのだ。

先生は各人の考えを生徒に聞いた。私は自分の答えをやっぱり言葉にできなくて、それでも、

「これが答えになってるかは分からないんですけど、なんかそれ(虐待されていること)を認めてしまったら、自分が崩れるというか、自分の中の何かが崩れるからだと思います。うまく言葉にできないんですけど、」

と言った。長ったらしい答えである。

でもこの答えに対して先生は

「いや、分かるよ、よく分かる」

と返してくれた。

ああ、その「わかる」という返答、それにどれだけ救われたか。

その道のプロである先生から、言いたいことがわかるという言葉をいただけて、なんというか、これも言葉にできないのだけれど、でもあえて言葉にするなら、自分の考えは間違っていなかったんだなという気持ちと、時折「崩れ」てしまう自分は決して間違っていないというか、おかしくなかったというか、私だけじゃなくてこういう感情になる人もいるんだろうなという感想を持ちました。

 

私は学校でこういうことを少しだけ勉強したのだけれど、ついでに言うと周りに反対されても押し切って進んだ学校だったのだけれど、本当にこのような勉強ができてよかったと思っている。もちろん反対されただけあって苦労も多かったし面倒な勉強もしなければならなかったけれど、私は学校で自分の学びたいことを一生懸命に学べたと自負している。一時期は受験戦争の中で勉強することの楽しさを見失っていたのだけれど、自分の好きなことや興味のあることを、周りの人たちとたくさん話し合いながら学べて、勉強は楽しいと再び思えた。自分で選択した道を責任を持って歩めたというこの自信は、忘れないようにしたい。

 

崩れそう。時折訪れるこの感情はどこまでも自分の心身を鉛にさせる。カウンセリングの時は最近いつもこの状態になる。最近は普段の生活をうまくやることを覚えたので、自分の心の膿をえぐり出すときは非常にきつい。近い未来、また崩れるだろうと思う。どうしようもない現実がある。そして今も。たまたまテレビを見ていてショッキングな映像が流れた。こういうときはどうすればいいんだろう。崩れそう。ググって調べるか。こういうときどうすればいいか。