美しいもの

美しいものを追いかけていたい http://twitter.com/kasg_wr

課題に向き合うこと

ふう。

はあ。

ため息ばかりついてないで書きましょうか。

私はおせっかいでお世話焼きな人間だ。しかし最近は、他者の課題に踏み込まないことを心がけている。

ここまで聞くと、なんだか素晴らしそうに聞こえるじゃないか。

でもこの信念は、自分が都合よく逃げるためのきれいごとに過ぎないのではないか。

私は信頼していたある人に依存してしまい、その人からもう頼ってくるなと突き放された経験がある。

きれいごとだって?

それからアドラー心理学をかじった。正確に言うと嫌われる勇気という有名な本を読んだ。そこで他者の課題の分離という考え方を知り、私は少しずつそれを採用するようになった。

「信頼していたある人」は、私の課題に踏み込んできて、手に負えなくなったらそれを放棄したのだから。

 

以前の記事で、1人だけ例外的に、その人の課題に踏み込んでいる人がいる、という話をしたことがある。その人を「彼女」と呼ぼう。

私は「他者の課題の分離」の原則に反して、彼女の課題には少しだけ向き合い、アドバイスしたり、共感したり、した。彼女とならそういう問題を共有しても問題ないと自分自身や彼女を、そして私たちの間柄を信頼していたからだ。

しかし、彼女が本当に困ったときに、私は急に手のひらを返し、「他者の課題の分離」を行った。

私もあまり心に余裕がなかった。仕方がなかった。他者の課題に踏み込まなかっただけだ。そう言い聞かせた。しかし私は、かつて私を突き放した「信頼していたある人」と同じことをした。という思いが消えない。私は肝心なときに彼女と向き合わなかった。逃げた。裏切られたと思われても仕方のないことをした。

そう自分を責めるのはよくないというのもよく分かっているし、その後彼女との関係が大きく変わったわけでもないので、あまり自分の行動を悔やんだり責めたりしないようにはしている。しかし、この文章を書くことにものすごくエネルギーが必要だった。この経験と向き合うのには途方も無いエネルギーが必要だった。

そう、私は肝心なときにいつも向き合うことをしない。

あのときも、あのときも。

なぜこんな子に育ったのかなんて知らないし絶対に知りたくもないのだけれど、この経験でやはり分かったことは、一生その人の課題に向き合い続けるという覚悟がない限り、他者の課題に介入しないべきであるということだ。そして人の感情なんて一時的なものなのだから、「一生その人の課題に向き合い続けるという覚悟」なんてものは、一生続くはずもないのだ。つまり、「他者の課題の分離」というアドラーさんの言葉は、私のような人間にとっては正しかったということだ。誰も救ってはくれない。自分で地獄に落ちて、自分で勝手に救われていくのだ、という私の考えも、間違いではないのだろう。

 

はあこんな問題に向き合って考えてさらに言葉にすることって本当にしんどい作業だね。カウンセラーの先生がいるときにするべきだろうけど、今日の私はよくがんばったよ。つらいこと、苦しいこと、向き合うのがしんどいこと、たくさんあるけど、うまく交わして、時々重い体を起こして向き合って膿を出して、それでなんとか楽に生きていけるといいなって、最近は思うのです。