美しいもの

美しいものを追いかけていたい http://twitter.com/kasg_wr

心について

私が深くシンパシーを感じたり、親近感がわいたり、人見知りだけどこの人なら近くにいたいと思えたりするような友人、人間は、結構メンヘラの傾向があったり、またはその手の話に敏感な人が多い気がする。単純に自分もメンヘラだから似た者同士に共感しているのか、自分がメンヘラ傾向のある人に魅力を感じているのか、はたまた向こうから私に寄ってきてしまうのか。きっとどれもこの現象に影響を与えているのだろうなと思う。

自分が心の病を持って久しいからか、周りにメンヘラが多すぎたせいか、大学で心や社会の闇について学んでいるからか、ふと気がつけば「メンヘラじゃない人なんてこの世に存在するのか?」とすら考え始めた。私も周りもみんななんらかの心の闇を抱えて生きている気がして、私の場合、それが高校大学時代を経る中で顕著に見えるようになってきた。「あ、この人はこういう特性を持ってるんだ」「ここが心の闇につながってるんだ」とか、詮索したところでどうにもならないのに見えてしまって考えてしまう。

話がそれたが「メンヘラじゃない人なんてこの世に存在するのか?」という問いの答えはおそらくイエスだろう。日本人全員が精神科に行った経験があるわけじゃないだろうし。私も所属している集団の自分から半径2m以上先を見ると、メンヘラじゃないであろう元気な人がいる。うん。もちろん、メンヘラが顕在化してない人々も生い立ちや経験や自分自身の中に大小なんらかのわだかまりやトラウマがあり、その人の特性を作っているのだと私は思う。

大学で家庭をはじめとした周囲の環境がその人の気質に多分に影響することを嫌というほど学んだ。ああはじめにこのことを学んだときは新たな知見としてキラキラと受け止めたのだが、この理論はきっと誰も救われないのだろうと今は思う。むしろ、誰かが何か悪いことをしてしまったとき、「家庭環境が悪いから」「育った環境が云々」と言われることは危険だろう。家庭環境を原因にするのは簡単だしおそらく一因にはあるだろうが、それを主因と断定してしまえばそこから何も生まれない。その人をなんとかしようという解決策は出てこない。「この人はこういう過去があるから仕方ないね」で終わってしまう。おそらく障害も同じだろう。「この人は障害があるから」と後ろ指を指すことは、きっと完全に間違っているとは言えないけれど誰も救えないしそこから先に何も生まれない。

誰にでも特性はある。限界もある。ただその特性はグレーゾーンなどとよく表現されるように無限のパターンのグラデーションなのだと思う。自分は発達障害ではないと自認しているが、限りなくグレーゾーンに近いホワイトゾーンにいるとも思っている(発達障害を黒色と表現してしまうことに抵抗があるが許してほしい)。限界はあるから完璧を達成することは不可能だというのが私の考えだ。きっと生まれながらに持ったものに生い立ちや経験が重なってその人の限界が決まっていくのだと思うが、自分の持つ限界まで届こうとする努力をすることは決して無駄ではないことだと信じている。