special
平穏なる運気です。
ああこの言葉がどれだけ嬉しいか。
平穏を求めてきた。
たしかにドラマチックな、いや劇的な、と言ったほうが近いだろうか、そういう人生を送ってきた節はある。自分が主役じゃないと気が済まないタチだ。よくないね。
しかし劇的な展開にはしばし苦しみも伴った。
私は平穏を、健康を、安寧を、失った。
マイノリティになった。
それから求めるようになったのだ、平穏を。
ふつうに学校に行けて、毎朝起きられて、ふつうの幸せを持つことを、切望してきた。
そう。だから平穏なる運気は、私にふっと安心を与えてくれるようなそんな救いの言葉だったのだ。
平穏とは言えなかったけど、半年が無事に経ちそうだ。
はあ。
やっと体から力が抜ける気がする。
本当にいつのまにか、自分はダメ人間だと思わなくなった。不思議なくらい。高校生のときは毎日その思いが頭を支配していたから。単に症状が治まったのか、私が随分成長したのか。どちらもだろう。ここ1ヶ月ほどは、自分に自信すら持てるようになった。それでも褒められると承認欲求が満たされる快楽の感覚を覚えてしまうけど。
大人と話すのが怖くなくなったし、上手になった。相手を好きになればいいんだと気づいた。好きになれない場合どうすればいいのかは分からない。けれど私は、人を好きになるストライクゾーンは広いと思っている。そんなに頻繁に人を嫌いにならないから。
愛嬌を振りまくのもできるようになった。すれ違ったら笑顔で挨拶をする、居合わせたら一言だけでいいから話す。天気でも、最近のイベントごとでも。疑問形で聞くとよいことも学んだ。
私は女性だけど(このブログを読んでくれている人なら大方予想はついていただろうが)、若くて女性というだけでちやほやされるのも、結構なアドバンテージなのだと気づいた。にこにこ笑って何かというイベント事に顔を出していれば、まあわりとなんとかなるんだなって。付き合いの悪い人にはなりたくないので、付き合いのいい人が参加してるものに、私もひょこひょこついて行っている。ついて行っているだけではなまる100点なのだ。
美しい景色に憧れてここへ来た。いつだって私を連れてきてくれるのは憧れで、きらきらした何かだ。それは人だったり学問だったり景色だったりするのだけど、叶うかどうかは別として、そういうものに憧れてそこを目指して頑張っていること自体が、きっと美しいのだと思う。
美しいものに囲まれていれば、私も美しくなれるかな。
決して美人でもないし、特に何かセンスがあるわけでもないんだけど、美しいものを美しいと言えるこの感性だけは、きっと私を美しくしてくれると思う。
ああ幸せだ。
こんな機微に気づける人間に生まれてきてよかった。
敏感さは時にストレスになるじゃん。私はにおいに過敏で、細かいことまで気にするし、嬉しい悲しいにかかわらずすぐ泣いてしまうし、人の機嫌をよく見すぎてしまう。
それでもこの感受性を持って生まれてきたことを、私は尊いと思っている。
美しいものを追いかけていたい。
この言葉にたどり着いたことも、私を少し美しくさせたかな。